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2006.06.01(木)

「都立板橋高卒業式事件」

東京地裁、威力業務妨害罪を認定

都立板橋高元教師が、来賓として訪れた卒業式で、開式前に保護者らに国歌斉唱時に起立しないよう呼びかけ混乱させたとして、威力業務妨害罪で起訴された事件で、東京地裁は罰金20万円の有罪判決を言い渡した(朝日、5月30日夕刊)。

威力業務妨害罪とは「威力を用いて人の業務を妨害した者」を「3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」ものである(刑法234条)。ここで「威力」とは、「犯人の威勢、人数及び四囲の状勢から見て、被害者の自由意思を制圧するに足りる勢力をいい、現実に被害者が自由意思を制圧されたことを要しない」とされる(最高裁の判例)。

本件で何を以って「威力」に該当すると認定されたのか。

記事によると事実関係は、元教師は開式直前に着席中の保護者に向かい、「今日は異常な卒業式」と訴え「国歌斉唱のときは、できたらご着席をお願いします」と大声で呼びかけ、教頭が制止すると「触るんじゃないよ」などと怒号をあげ、校長が退場を求めても従わず、式典会場を喧騒に落とし入れ、開式を約2分遅らせるなどした、とある。

この事実を判断するのであれば、従来の判例の「威力」の認定の流れからすれば今回の東京地裁も有り得る判断ではあるが、記事によると、判決は上記の事実だけでなく、呼びかけの「内容」が学校側からすれば許容できない内容で、校長らも職責上放置できないものだから「威力」にあたる、としたと、「内容」に着眼されたと報道されているのである。この記事の要約の仕方は正確なのか疑問が残る。本当に「内容」を問題にして刑事罰を科したのだろうか。それとも「大声で呼びかけた」こと、「怒号をあげた」こと、求められても「退出しなかった」こと、式場を「喧騒に陥れた」こと等の一連の行為の外形が「威力」とされたのであろうか。記事の要約が正確か疑問があるという留保付きだが、もし、本当に「内容」に着眼した前者であれば、これは「思想弾圧」と言われても仕方がないだろう(後者だとしても本来は問題がある)。朝日の新聞記事の解説に詳しいが、都教委が03年10月、入学・卒業式の国歌斉唱時の起立徹底を通達で打ち出した、本件ではその方針に則り学校側が被害届を出し、検察官が起訴し、裁判官が有罪とした、という構図となる。

政治的なビラ配りが建造物侵入罪に問われたり、公衆便所へのメッセージ落書きが建造物損壊罪に問われたり、本件を含めた、この間の一連の刑罰による規制が一定方向を向き出している危険をヒシヒシと感じる。

ここから先は判例解説では最早ないのだが、今ホットな教育基本法改正論議も含めて「国を愛せよ」「国旗・国歌を尊重せよ」という様に個人の心情や思想・信条に関わるものを、法的に強制しようとする姿勢は、憲法19条違反で根本的に誤っていると私は思う。強制されれば、愛情や尊敬の念が湧くよりは逆に反発心・嫌悪感しか発生しない。国を愛するか否かは個人の自由だし、愛して欲しければ愛するに値する国にすることに専心すべきで、「国を愛せよ」と法律で強制することは何物をも生み出さず完全な逆効果にしかならない筈だ。これはちょっと考えれば子供でもわかることで、「俺を好きになれ!好きにならなければ殴るぞ」と拳を振り上げる男を「素敵だわ」と感じるバカがこの世のどこにいるというのだ。極めて単純な真理だと思う。そして、法律で強制するしか「国への愛」が育てられないと考える人達は、寧ろ国家権力の強制に頼らざるを得ないほどに「国」とは「国旗・国歌」とは全く魅力がない代物だと自ら貶めていることにもなるのである。「国」や「国旗・国歌」への愛や忠誠を法で強制することで、「国」「国旗・国歌」を貶め且つ益々人心を離反させる、全く二重の誤謬である(ちなみに私自身はこういう勢力のせいで日の丸・君が代は嫌いである)。

法律で強制すれば愛情や尊敬の念が育つと考える人々は、多分、自分達がそうして来たといういわゆる権威主義的性格なのだろうとしか思えない(この点は書評で評した「権威主義の正体」を読んでみてもらいたい)。