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弁護士甲能はどんな人間か(プロフィール)

氏名:
コウ ノウ シン
    (通常は「兒」ではなく「児」を使用)
生年月日: 昭和29年(1954年)12月11日
出身地: 大分県日田市
甲能新児顔写真
学歴・職歴
1961年 4月 当時の大分県日田郡栄村にあった村立桜竹(さくらだけ)小学校入学
その後、日田郡栄村は日田郡天瀬町となり、更に平成の町村合併により、2005年4月、大分県日田市天瀬町となった。天瀬温泉は根強いファンを持つ。
小学生の私は、ギョロ目・天然パーマは今と同じだが、未だ顔は丸かった。中学くらいから身長は伸びず顔の長さが伸びて来た。ちなみに私は午(ウマ)年の射手座。
1967年 4月 天瀬町立東渓中学入学
バレーボール部に入部。当時は9人制バレーだった。部には所属したものの、生来の運動音痴(略して「運痴」)で万年補欠。
1969年 4月 一家の日田市転居に伴い日田市立東部中学校に転校
1970年 4月 大分県立日田高校理数科入学。入学当時は建築家になろうと思っていたが、その後、色々考えてジャーナリストか法律家になろうと考えるに到った。
なお、私が卒業後、数年して理数科は廃止になった。
1973年 3月 九州大学法学部を受験するも不合格
1973年 4月 修猷学館入学(福岡県立修猷館高校付属の補習科)。その後、修猷学館は中央から進出して来た大手の予備校に押されたのか廃校になっている。
1974年 4月 京都大学法学部入学
日本育英会と(財)法華倶楽部の2箇所から貰う奨学金と、家庭教師やコンビニほかスポット的なバイト収入と親に無理に送金して貰っていた学生生活だった。多くの人がそうだろうが、学生時代のことを思い出すと柄にもなく妙に感傷的になってしまう。別に京都という土地柄のせいでもなかろうが。
1983年 3月 同学卒業
1983年 4月 神戸市に一般行政職として採用
1987年 3月 同市退職
結局、公務員・サラリーマンは勤まらなかった。
1987年 11月 司法試験合格
1988年 4月 最高裁判所司法研修所入所(42期)
そこで、実務修習先(要するに見習い先)として、福岡地裁・福岡地方検察庁・福岡県弁護士会に配属。
1990年 3月 同所卒業
1990年 4月 福岡県弁護士会登録
岩崎明弘法律事務所(現「大名総合法律事務所」)に採用
1994年 3月 独立して、甲能法律事務所開設(事務所を、舞鶴→大名→赤坂→六本松と移転)
1995年 神戸市民の税金で生活していた経験から、1月17日の阪神淡路大震災に心を痛めボランティア法律相談に出張
1999年 4月 九州大学法学部大学院フレックスコース(社会人が働きながら学べるコース)修士課程に入学。民事訴訟法専攻。
沢山の教授にお情けで単位を恵んで頂き修士号取得。しかし博士課程にまで進学する能力も気力もなかった。
2007年 4月 民事調停官(福岡簡裁の非常勤裁判官)就任。2011年3月まで。
2011年 4月 民事調停委員(福岡簡裁)就任。2015年まで。
2013年 4月 西日本短期大学 非常勤講師就任
    現在に至る
性格・趣味など

温厚(と「自分では」思っているが、多分間違いない)。依頼者・相手方に理解して貰う必要があると考えたとき(と酒が入ったとき)は良く喋るが、普通は無口。日頃の無口な私を知っている人達には「良くそれで弁護士が勤まるなぁ」と言われるが、喋らざるを得ないときは喋らざるを得ないので喋る。また文章を書く場合はその反動で、いわゆる「饒舌体」。そのため「読むと会うとは大違い」等とビックリされることがある。

趣味は読書。というか活字中毒の濫読。だから例えば新聞の休刊日は新しく読める活字がないので地獄。そして、読「書」にはマンガ・劇画の「書」を含む(今でも少年サンデー・少年マガジン・ビッグコミックは毎週欠かさず読む)。実は、私は故手塚治虫先生を神と崇めていて、子供の頃(中学前半くらいまで)の夢は「手塚先生の様なマンガ家になること!!」だった。手塚先生は、旧帝国大学医学部を卒業されて医学博士号まで持っている、と私の父は力説し「ニシ(日田地方の方言「ヌシ(主)=お前」がなまったもの)も手塚先生ンごつ(「ごつ」=「如く・ように」)なりたかったら、帝大医学部に入れる位、博士号を取れる位の頭がないとつまらんとぞ(ダメだぞ)」と言い含められ、私の幼い頭はそれを真に受けた。つまり、手塚先生と同レベルのマンガ家になるには、「帝国大学医学部に入れる位にならないと絶対ダメだ!絶ぇっっ…対ダメだ!!。」と信じてマンガを描くのと平行して熱心に勉強する子供だった。それで図工・美術の成績は確かに良かったが、段々マンガ家になれる才能はなさそうだと感じはじめ、中学頃に建築家を志した。

しかし、高校の頃、数学は比較的得意だったが物理がサッパリわからなかった。物理のわからない建築家は生物のわからない医師よりはマシかも知れないが、それでも危ない建物しか設計できないのではないか、やはり理系の頭ではない、という思いと思春期の色々で、ジャーナリストか法律家になろうと法学部を志した。その結果が現在。