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判例解説インデックス

2005.10.03(月)

小泉首相の靖国参拝は違憲

違憲だが損害なし

大阪高裁は、2005年9月30日、小泉首相の靖国神社参拝を違憲と判断したが、損害賠償の請求自体は棄却した。

最高裁が、在外投票権を認めないのは違憲だと判断したことの私の解説で、現在、裁判所が持っているのは付随的意見審査権である、と書いた。今回は、そのこととの関連で解説をする。

そこでの解説では、付随的違憲審査権は法的紛争を解決するのに必要な限りで行使する建前になっている、と説明した。では、この靖国紛争の判断の際に違憲審査権行使の必要があったのか。

本件では、首相の行為は違憲ではあるが、原告ら(被害者として訴えた人たち)の法的利益を侵害していないとして、損害賠償請求を認めなかった。合憲であればそもそも違法ではないので、損害賠償請求を認める必要はない、というより認めるべきでないことになる(違法性のない行為から賠償義務は発生しない)。とすれば、違憲であれ合憲であれ原告らの損害賠償請求は結局棄却する(認めない)のであるから、違憲か合憲かは判断する必要はないことになる。現にその様な理屈で憲法判断を回避して、靖国訴訟で原告らの請求を棄却したものも多い。では今回なぜ敢えて裁判所は憲法判断をしたのであろうか。

もちろん最終的には裁判官らに心情を吐露して貰わないとわからないが、付随的違憲審査制と言っても捉え方に差があり、上記の様に紛争の結論を導くのに必要な限りでしか違憲審査権を行使しないという考え方もあり得るし、具体的な紛争として裁判所に提訴された以上憲法の番人たる裁判所は憲法判断をためらってはならないという考え方もあり得るのであって、本件の裁判官らは後者であったということなのだろう。前者を司法消極主義といい後者を司法積極主義という。

その背景には裁判所の「非民主性」の捉え方の相違があると言えるだろう。すなわち国会議員や地方議会議員の選挙などと異なり、裁判官がその役職に就く際には国民の直接的な判断は経ていない。敢えて図式化すると、国民→国会議員→最高裁判所の指名(名簿作成)→内閣総理大臣の任命→一般裁判官(憲法79条)という流れで任命され、国民自身は、事後的に最高裁裁判官の国民審査で解任することが出来るだけ、という仕組みである。そして、この国民審査が実質機能していないことは誰もが実感している筈である。唯一、裁判官を弾劾する申立(不適格として辞めさせようとする申立)は誰でも出来ることになっているが、それは裁判官にあるまじき非行があった場合に限られ、政治家の政見を聞いて気に入らないから投票しなかったりリコールを求めるように、特定の裁判官の判決が気に入らないから辞めさせる、という様な政治的な責任の取らせ方は出来ない。裁判官は、職権の独立が保障されているからである(でなければ公正な判断が出来ないと考えられている)。

この様な民意を直接反映しない立場の裁判官は、憲法判断を軽々しく行ってはいけないというのが司法消極主義である。他方、多数決民主主義が原則の国家においては、この様な「非民主的」裁判官こそ多数を嵩に来た多数者の横暴・暴走(それがファシズムに行き着く)に対する防波堤になれるのだから、臆せず憲法の番人の役目を果すべきだというのが司法積極主義と言って良いだろう。「赤信号、皆で渡れば怖くない」ではなくて、「赤信号、皆で渡っても赤信号(赤信号は赤信号であって、皆が渡るからといって青に変わる訳ではないのだから、やはり渡ってはいけないものは渡っていけない)」と決然と言うべきである、ということになろうか。

司法積極主義か消極主義かどちらが良いか、或いはどちらが良いと決すべき問題か、中々悩む問題である。私自身は、裁判官に人を得れば司法積極主義が良いと思ってはいるが、…。