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福岡市弁護士甲能ホーム判例解説インデックス最高裁の上告不受理により、山形マット死事件の民事賠償確定

判例解説インデックス

2005.09.10(土)

最高裁の上告不受理により、山形マット死事件の民事賠償確定

刑事責任と民事責任の乖離

山形マット死事件のご遺族が損害賠償を求めた民事訴訟で、9月6日、最高裁が少年側の上告を受理しなかったことで、賠償を認めた高裁判決が確定した(平成17年9月7日、朝日新聞朝刊)。

この事件は、中学生がマットに巻かれて窒息死した事件で、加害者と目された少年7名が逮捕・補導され、続く少年審判では、うち3名が不処分(非行事実なしとして刑事裁判での無罪に相当する)、非行事実ありとされた少年4名に付き2名が少年院へ、1名が救護院へそれぞれ送致され、残り1名が児童相談所の管理に付された、ということである。

その後、少年院送致の保護処分を受けた少年達が抗告するなどしたが、結局、少年らの主張は容れられなかった。

一方、死亡した少年の遺族は、7名全員を加害少年として損害賠償を求める民事訴訟を起こした。

この民事裁判では、地裁では7名全員とも加害に関与した証拠はないとされて賠償請求が認められず、高裁では一転して7名全員の関与を認めて賠償請求が認められ、今般、上告していた少年側の上告が受理されなかった結果、賠償を認めた高裁判決が確定するという経緯を辿っている。

この事件は、複雑多岐に亘り全ての論点を解説するのは紙幅の関係で無理なので、法律に疎い方々の素朴・率直な疑問にお答えするという考えで、何故こんなことが起こり得るのかという基礎の基礎的な知識を提供しようと思う。

まず事件(事故や紛争)が起こった場合、司法権(裁判所)が関与する法的責任の追及は二つのルートがあり得る。刑事責任追及と民事責任追及である(ちなみに裁判所ではなく内閣を頂点とする行政権が追及する責任で行政処分をするというものもある−典型例は公安員会が行う道路交通法違反の運転免許の取り消しや免停など)。

刑事責任追及は、成人の場合は、刑法や特別刑法で定められた犯罪の有無を裁判で確定し、犯罪に応じた刑罰を判決で宣告して、実際に刑罰を受けさせる。この場合、刑事裁判を準備するための捜査は自治体警察と検察庁、捜査の結果、刑事裁判を開始する(起訴)権限は検察官、刑事裁判を主催するのは裁判官、刑罰を執行するのは法務省管轄の刑務所、ということで、基本的に国家(ないし自治体)が刑事責任追及を主導する。国民も告訴・告発という権利はあるが、それは国家の職権発動を促す切っ掛けという位置づけである。

一方、民事責任追及という場合、民事訴訟による場合は、民事上の権利の有無を裁判で確定し、権利に応じた行為を判決で命じて、義務者側の国民に負担を強いる訳である。具体的には金銭賠償という形で金を支払わせるか、権利の目的物を強制執行などにより引き渡させるか、などの責任の取らせ方がある。この場合、民事裁判を主導する(起こす)のは国民自身で、裁判手続を主催するのは裁判官だが主張・立証は国民自身が行い、判決を執行するのは国民の申立を受けた執行官ないし執行裁判所ということになる。だから基本的に国民の側が民事責任追及を主導する。

この様に、法的責任追及といっても民事と刑事という性質の違うものが並存するのであり、基本的に両者は別の制度で直接の影響関係はないことになっている。つまり、刑事責任が認められたから民事責任が免除されるとか、逆に民事責任を果たしたから刑事責任が免除されるとかは制度として用意されている訳ではない(事実上影響がある、ということはある)。

しかも、刑事責任追及は刑事訴訟法という法律に従い、民事責任追及は民事訴訟法という法律に従い、二つの訴訟法は同じ訴訟法でも違う理念に従って規定されている。いずれも法である以上は抽象的には正義・公平を理想とはしているのだが、極めて雑駁な対比をすると、刑事訴訟法は国家が独占する刑罰権の適正な行使と被告人の裁判を受ける権利の保障であり、民事訴訟は私的紛争を公権的に解決することを目的とするので、法の諸原則でも大きな違いが出て来る。

本件は、刑事訴訟法ではなく少年法に基づく少年達の処分が出発点であるから、民事責任対刑事責任という対比の枠にはストレートには持ち込めない部分が多いが、極めて乱暴にいうと、上記の対比とほぼ似たところがある。

判決文を読んだ訳ではないので、どうして裁判所ごとにこうも違う結論が出るのかの理由は詳細にはわからないが、上記の通り、民事と刑事は別個の手続であるから、別の結論が出ても制度としてはおかしくないことになっている。ただ同じ民事訴訟で結論が分かれるのも不思議と思われるかも知れないが、三審制(同じ事件で3回裁判を受けられる)を取っている以上、「想定内」ということになっている。

特に近現代の裁判は、自由心証主義といって、どの様な証拠からどの様な事実を認定するかは裁判官の自由に任されるという建前を取っている。これに対するのが法定証拠主義で「三人以上の証人の証言が一致した場合はそれを真実と認定しなければならない」等と法律で定めておくのだが、複雑化した近代社会ではとてもこれでは対応できない。自由心証主義の結果、裁判官に応じて認定事実が違ってくるのは一定程度は避けられない。

どんなに優秀な裁判官であっても、神ではないのだから、絶対的に真実を見通すことが可能とは言えないし、もちろん裁判官同志でも同じ結論にたどり着くとは限らないのである。人間の営む制度としての限界は如何ともし難く存在することを再認識せざるを得ない。