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福岡市弁護士甲能ホーム日記インデックス2006.11.14(火):飲食店の節回し

日記インデックス

2006.11.14(火)

飲食店の節回し

酒井順子氏の「食のほそみち」の中に「飲食店の節回し」という項がある。同書の書評でそのことについて書こうかと思ったが、長くなるし「評」とは言いにくい内容なので「日記」の方で書くことにした。

同書の項では、スターバックスの「ショートラテ――ェッ」に始まり、蕎麦屋さんの注文受け、電車内のアナウンス(「新宿、新宿です。お足元にお気をつけ下さい」)、電車ホームのアナウンス、居酒屋さんの注文受け(「いらっしゃいませぇぇぇーいッ」)等などで聞かれる独特の「節回し」を挙げ、それを聞かされる側が感じる何かしらの気恥ずかしさは「節回し」で喋っている人達の「自己陶酔」が原因だとする。また「節を回すならテレずに回せ、テレるくらいなら普通に回せ」という辺りを結論とする。

高校の頃読んだ伊丹十三氏のエッセイにも同じ様な内容のものがあって、確かデパートの売り場で放送される「ゥいらっしゃいませェ」といった独特の節回しに対して違和感を呈していたと記憶する。

確かにそういう面はあるのだが、私には酒井氏の故伊丹氏のお考えにも若干の異論がある。

学生の頃、近鉄デパート(京都駅近くにあった)のアルバイトで「夏物半袖カッターシャツ大安売り」のアルバイト募集に応じたことがある。確かバイト料が良かったのと1週間か2週間という短期間だったのが魅力だった様に記憶する。

そのバイトの初日は、販売中の8時間ほとんどが売り場で立ちっぱなしなのでひどい腰痛になり参ったが(若かったからだろう二日目位からは何ともなくなった)、販売中に大声を出して売れと言われていた口上の「さぁさぁいらっしゃいいらっしゃい、半袖カッターシャツただいま大変お安くなっております。今がお買い得ですよぉ〜」というセリフには正直参った。机に向かって司法試験の受験勉強ばかりしていた当時、その様なバイトは大変な苦痛であろうことは読者の方々もお判りだろう。同じバイトに応募した京大文学部の作家志望だという初対面の奴(それっきり会っていないが今頃どうしているのかしら)からは「お前の口上には羞恥心が混じっていてアピール度が足りない」と言われる位で、別に売り子さんで身を立てようとは思っていないにしても悔しいのは悔しいので安売り自体は頑張ろうと声を張り上げた。そして、やっているうちに気付いたのは「口上に『節』を付けると何も考えなくて済む」ということなのである。

どういうことか。我々歌の素人は、歌うとき歌詞の意味は殆ど考えず機械的に歌うことができる。「ミ・ミ・レ・ド・ド・レ・レ・ミレド」という音階にあわせて「結んで開いて」と歌うとき、この程度の歌詞であれば歌うときに歌詞を理解しているとしても(ちなみにこの歌の作曲者はあのジャン・ジャック・ルソーだそうである)、例えば「君が代」が典型だが、小学生のとき「君が代」「蛍の光」「仰げば尊し」など式典で歌わされる文語調の歌詞の意味を理解して歌っていた小学生がどれだけいたかというと、多分百パーセントの小学生が理解していなかったと思う。単に音階に割り付けられた五十音の音を音階に沿って発していれば、それで歌えたのである。つまり「節(メロディ)」さえ付ければ、歌詞の意味内容が理解できなくても誰でも歌を歌えるという事なのである(だから「君が代」を強制して良いと言っている訳ではない、念のため)。

逆に言うと、言葉に「節」を付けると意味を考えなくてもその「節」に乗ることで機械的に喋れるということを、私はそのバイトで生まれて初めて経験した。毎日、何十回も何百回も発している言葉に一々心を込めることは不可能に近い。そうなると機械的に反復はするのだが、それに「節」を付けてしまうと大変に「楽」なのである。鼻歌を歌っているときに誰も歌詞の意味など考えていないだろう。だから、独特の節回しは発語機械になりきるための知恵なのではないか、というのが私の考えである。「自己陶酔」も何もあったものではない。機械になるためだったのだ。少なくとも私は「自己陶酔」は出来なかったが、大声で客の注意を引く責任はあったので、やっているうちにそのことに気づいた。私からしたら一つの発見である。私のアヤフヤな知識でいうと、言葉に「節」をつけることで「発語作業」が左脳から右脳に移るのではないかと思う。

逆に事業や商売のハウツー本には、客を勧誘する言葉に「心を込めよ」という教訓が書かれていることが多いという背景には、言葉が機械的で心が篭っていない篭めることが出来ないという現場を反映しているのかも知れない。